ひとつの時代を築き疾走した夢の遊眠社

夢の遊眠社は
若い世代に大きな共感を呼び起こした
 夢の遊眠社は、1976年4月、東京大学演劇研究会を母体として結成され、東大構内の駒場小劇場を拠点に活動を開始。以来一貫して、主宰である野田秀樹の戯曲作品を上演していました。早くから、学生劇団の有望株として注目され、第2回公演「走れメルス」 で VAN99ホール、第8回公演「怪盗乱魔」(パルコ・ドラマ・フェスティバル5劇団競演)でパルコ裏テントと、大学外でも積極的に公演。1981年3月、第14回公演「少年狩り」 で若手劇団の登龍門と言われた紀伊國屋ホールに進出。つかこうへい事務所に続く新しい劇団として、若者を中心に圧倒的な支持を受け、一大ブームを巻き起こしました。翌1982年10月第19回公演「野獣降臨」を最後に駒場小劇場を巣立ち、以後プロの劇団として、紀伊國屋ホール・本多劇場に於て徐々に公演の長期化につとめ、1984年には、年間100ステージを達成するとともに、初の関西公演も行ないました。1985年夏には、第27回公演「彗星の使者」を科学万博-つくば'85にて上演。万博というイヴェント空間への参加という点で、また、企業のスポンサードによる冠公演という意味でも、その後の劇団の方向性を決定づける有意義な公演となりました。続く、第28回公演「宇宙蒸発」での、初の日本縦断公演は、各地で絶賛を博し、その人気を全国的なものとして定着させました。1986年は、10周年記念の特別企画を次々に発表。中でも、「白夜の女騎士」「彗星の使者」「宇宙蒸発」の、書き下ろし3部作一挙上演は、上演時間のべ6時間、1日で26,400名の観客を代々木競技場第一体育館に集めた演劇マラソンとなり、日本演劇界初の快挙として各方面の話題をさらいました。そのほか、写真集の出版、舞台のビデオ化、過去の上演作の中からファン投票で選ばれた上位2作を上演するリクエスト企画、少女 漫画界の第一人者・萩尾望都原作・脚本「半神」を野田秀樹が潤色・演出するなど、つねに注目を集める多彩な活動を展開。演劇公演を舞台だけにとどまらず、ひとつのイヴェントとしてプロデュースするという夢の遊眠社の姿勢は、これまでの演劇のワクを打ち破る新たな試みとして高く評価されていました。1987年には海外にも進出。エディンバラ国際芸術祭に招待劇団として参加し、圧倒的支持をうけました。国内でも、二度目の全国縦断公演、大劇場への進出と活動の場を広げました。1988年は二度目の海外公演としてニューヨーク国際芸術祭に参加。その後初の野外公演を行ない、1989年には、京都南座で公演するなど、常に飛躍する劇団として活動を続けています。 1990年は、三度目の全国縦断公演・海外公演と、国内・外での活躍をさらに広げ、秋の第39回公演「三代目、りちゃあど」は文化庁芸術祭賞を受賞しました。夢の遊眠社の魅力は、夢と現実が入れ子細工のように重なった奇想天外なストーリー仕立てに言葉遊びをふんだんに盛り込んだ野田戯曲の面白さ、スポーツ選手なみに鍛えぬかれた役者陣のスピード感あふれる躍動的な演技、歌舞伎を思わせる仕掛けの大きいスペクタクルな舞台造形などにあり、あらゆる面で独創的な感覚が、若い世代を中心に新鮮な共感を呼び起こしています。「贋作・桜の森の満開の下」では、坂口安吾の原作をもとにし、又、「三代目、りちゃあど」では、シェークスピア作品の潤色を行なうなど、ストーリー展開にも新たな方向性が見られました。

1992年第43回「ゼンダ城の虜-苔むす僕らが嬰児の夜」11月23日千秋楽にて解散

創立から解散まで、公演回数43回、総ステージ数1,205回、総観客数は812,790名。